この世に競馬必勝法はない。競馬をやってる人間で、この言葉に異を唱える人はいないだろう。
しかし同時に、誰もがこう思っている。競馬に必勝法があったらどんなにいいことか。百発百中とは言わん。せめてコンスタントに儲かる方法があればオレの人生バラ色なのに。
そしてこうも考える。オレが負けてるってことは、誰かが勝ってるってことでもあるんだよな。てことは、別にオレが勝ち組にまわったって不思議はないわけだよね……。
ビギナーを卒業し、毎週のように馬券を買う程度に競馬にハマってくると、まあだいたい考える。考えたくなくても、ハズレ馬券を見るたびに頭をよぎる。よぎりつつも、どうすることもできないまま月日が流れる。
そして、スポーツ新聞の広告や書店の店頭で、アナタの目に、馬券本の熱いメッセージが飛び込む日がやってくるのだ。
「5分でできて誰でも儲かる!」
「信じられない的中率と回収率!」
「おもしろいほど万馬券が取れる!」
あまりにもおいしすぎるコピーである。そんなバカな、の世界。だが、この世界ははるか昔から存在し、毎年コンスタントに新作を送りだしている。素直に考えれば、それだけ買う人がいるということだ。
だが、甘い言葉を信じていいのか。結論から言えば、信じてよかったってケースは100にひとつかふたつだろう。馬券本がアナタの競馬生活の救世主となる可能性は極めて低い。あたりまえだ。そんなうまい話が1200円かそこらで転がっているはずがない。
だが、それでも私のような人間は飽きることなく馬券本を買う。いま、150冊ほど持っている。最初は当てるつもりで買っていた。いや、いまだって当たればいいと思って買っている。しかし、それだけじゃないのだ。馬券本はおもしろいから買うのである。たいして当たらなくても、1冊1冊に味わいがあり、コクがある。私にとって馬券本のハッタリに満ちた文章を読むことは極上の娯楽であり、理論のブッ飛びぶりや的中率・回収率を検証することは楽しい趣味になっている。
これさえ読めば当たる、儲かる。呪文のような決めゼリフは馬券本ワールドの入り口だ。その穴は迷路のように入り組み、底なし沼のように深い。
いったい馬券本の世界はどうなっているのか。さっそくジャンルごとに紹介していこう。
レベル1
[血統、人間関係]系
馬券本の初心者コースとしてまず興味を引かれるのが血統や人間関係を軸とする本。
競馬は馬が走り、馬は血で走る。したがって血統からレースへの適性を探るのは基本中の基本。血統を解説する本は馬券本じゃなくてもあるが、最近は血統研究家が予想の分野にまで進出して本も出している。インブリード、アウトブリード、クロスなどなど、芸は細かい。はっきり言ってシロートにゃ何が何だかわからない(読んでもやっぱりわからない)んだけど、ダビスタなんかで血統をカジってる向きには、知的魅力もあったりして妄想の入り込む余地が少なく、やっぱり正統派って感じがしてしまう。マニアックな姿勢はさすがであり、その情熱は買えるが、強引さに欠けるのが難点で、馬券本としての評価はもうひとつ。
主流となっているのは種牡馬ごとの特徴からレースを分析する手法。距離適性からダート・芝の巧拙、冬血統、夏血統、穴血統など、まあいろいろと注文がつき、勉強になる。
そう、学問なのだ血統は。当たらなくても仕方がないのだ学問だから。メジロブライトは長距離血統で強いから春天に勝つ。そんなわかりきった解説でレースを語られちゃあ盛り上がらないではないか。じゃあ負けたシルクジャスティスはどうしてくれる、なんていうのはヤボである。机上の論理を楽しむ、これこそが血統派の醍醐味だ。
人間関係系は「ヤル気の発見」を読むことがテーマ。馬を走らせているのは騎手であり厩舎であり馬主であり、つまり人間。競馬界という狭い社会でうまく生き抜くには人間関係の読みが欠かせない。岡部ラインとか的場グループとか、厩舎だったら師弟関係やら親戚関係を憶えたり。
この手法は昔からあるもので、目新しさはないけれど、騎手や厩舎の関係は年々変化するからなくなることがない。まずまず実用的であることは確かだ。なんつーの、こういうのを読んでおくといっぱしの競馬通になった気分が味わえるのだ。
だって、説得力あるからね。著者はたいてい競馬社会に詳しい専門誌記者あたり。人間関係の網に縛られてしまって馬の力を忘れがちになるので注意が必要だけど、そこそこ使える馬券術ではある。1冊持っていて損はない。
残念なのはディープではない点。つまり、メインとなっているのが人間関係なので、なかなか著者の視点を盛り込みにくいのである。うがった見方、意地の悪い人間関係解読を試みて健闘している本は少ない。どうしてもアドバイス集、参考書になりがちで、馬券本として軽量級なのは否めない。きっちりした法則がめったに載らないために、読んだだけでは買い目が出せないのだ。
それに、著者に後ろ盾がある点も、馬券本としての純度を低くしている。馬券本ワールドでは、どこの馬の骨かわからない馬券名人こそ、最高の著者なのである。
レベル2
[データ分析、レイティング]系
データ分析、レイティング系のポリシーはただひとつ。自らの分析結果への忠誠である。方法は、説得力さえあればどんなものでもいい。とにかく一定の法則にしたがって、出走馬から何頭かを絞り込むのである。過去の戦績でもいいし、該当レースの傾向分析でもいい、絞れれば勝ちだ。
もちろん勝ちと言っても的中するってことじゃないんだけど。買い目が出せるということである。
でも、これが大きい。買い目が出せるのと出せないのとでは、馬券本としての価値が違ってくるからだ。買い目が出せるってことは、すなわち的中か不的中か、言い逃れできない結果を残すことにつながる。このリスクがいかに大きいかは、買ったつもりになってもらえればすぐにわかる。当たらなければアナタは友人に「あの本はダメ、全然ダメ」と言うに違いないのだ。
逆に言えば、著者は「当ててみせる」と思っているわけである。ここ、キモです。「オレの馬券術は当たるぜ」と本気で思って書かれた本こそ、正しい馬券本だからだ。私は、買い目の出せる本を発見すると、本として勝負してるなーと思う。それだけで好感度アップね。
レイティングなんかその最たるもので、きっちりと馬ごとにポイントが示されるのだから、買うほうは出走馬から高ポイント馬を選べばいいってこと。手間のかかることおびただしい作業だが、読者が知りたいのは理論よりポイントランキング。当たるかどうかの比重が高く、ハズレたら「なーんだ」で終わってしまいがちだ。理論構築で楽しませることすら許されない運命。まさにギリギリの勝負であり、私など文句なしに尊敬してしまう。
しかし、コクという点では物足りないのも事実。そこで浮上するのは、さまざまなデータを駆使した馬券術の方である。
データ系には2系統ある。ひとつはマジにデータと向き合い、とことん分析した結果をどーんと読者にぶつけるタイプ。必然的に「東京競馬場専用」など専門色が強くなる。G氓ネど、グレードごとの本も多い。
こういうのはついデータの豊富さに目が行くが、馬券本の価値を決めるのはそこではない。あふれるデータからどれを選ぶか、そのセンスこそ命なのである。著者の姿勢っつうもんが現れるデータの取捨に、思わず読むほうにも力が入るってわけだ。そぎ落とされ、絞り込まれ、簡潔にまとめられた攻略データ。それはもう美である。
そしてこのジャンル、もうひとつの派閥は独断流とでも申しますか、“自分にとって都合のいいデータを作りだす”グループ。
たとえば、かつて「4番人気馬はよくくるから狙え」という、ただそれだけの鉄則で1冊にまとめられた馬券本があった。そこには、いかに4番人気馬が穴馬券の盲点になっているかが書かれているんだけど説得力はまるでなく、実際まったく当たらず、内容的にも下の下だった。でも、それでいいのである。いや、いいわきゃないんだけど馬券本的には許されるのである。
このあたり、わかりにくいかもしれないなあ。要するに発想なんだ。発想があって研究があり、データ化がある。こうしたデータ本は玉石混合で大量にあるんだけど、基本的に著者の執念に着目して欲しい。このジャンルでいい本というのは「コイツ。これ書くまでに相当スッたな」と思わせてくれる本。自腹を切り、損した分を何とか取り戻そうと必死で開発した馬券術。頭でこねくりまわすんじゃなく、カラダで会得したような馬券術が最高ランクとなる。
レベル3
[時計理論、オッズ]系
1、2年前まで馬券本の主流だったが、最近は減ってきている。
時計理論は持ちタイムや調教タイムを指数化する方法だが難解で、1レースの予想をするのに膨大な時間がかかるのだ。そのため、結局は著者のコラムなどに示される買い目を頼りに馬券を買い、自分では何もできないことになりがち。やってておもしろくないのが衰退の理由だろう。
それでも当たればいいんだけど、そうでもない。競馬は計算どおりの結果を出してはくれない。いかにも理数系の馬券術じみていて、アプローチもまともだしね。なんといっても時計理論はアメリカ生まれなもんで、合理性を求めてしまうのかなあ。
その点をアレンジしてタイム修正の方法を追及した本もあり、なかなかよくできている。でも、やはり面倒なのか、時計理論のブームは去ってしまった感が強い。
まあ、そこに熱烈な信者も生まれるわけだけどね。時計理論の信奉者は、他派を寄せ付けない気分が強い。ガンコなのだ。
一方、オッズ理論はオッズの推移からレースを読み、人心の流れを読み取る方法。やや飽きられた感があるが、当初は素晴らしい勢いがあった。目の付け所の勝利といいましょうか、とにかく考え方が斬新。的中馬券をいかに追いつめるかという点で近年まれに見るヒットだった。
で、オッズとは無縁ながら、心理面から馬券を考察する手段として馬の心理に目をつけたのが「Mの法則」シリーズ。勝手に馬の心理を決めてしまっていいのか、おまえは馬と話でもできるのか。そう言いたいのをこらえ、著者の作り出した世界に身を任せてみると、なるほどそうかとナットクできるのだ。
こういうのが私としてはポイント高いんだよね。誰も思いつかなかった馬券術ですからね。これを思いつき、馬券術にまで持っていった著者の力技にシビレなきゃイカンってもんです。
ただし、変わった作戦ならすべてOKではない。
妙な馬券術なら、これまでに星の数ほどあったが、生き残っているものはゼロに近い。出版社はコンスタントに本を作らなければならないため、かなり無理して馬券本を作ることがある。そういう本が当たったり、売れた試しはないし、内容も薄い。馬券本は突飛なものが多いけど、それと適当に作られたほんとは違うのだ。
奇をてらうのは、この世界の常識だが限度あり。馬券本は第1章にエキスが注ぎ込まれていることが多いので、立ち読みすれば説得力のあるなしはすぐにわかる。アイデアと説得力は優れた馬券本の必須であり、早い話、この2点さえ満たしていれば、それは馬券本としての輝きを持っているのだ。
たとえ当たらなくても怒ってはいけない。鼻タレ小僧じゃあるまいし、努力せず安い金で必勝の夢をかなえようとしている自分のカッコ悪さもちゃんと気づいていたいもんだ。
レベル4
[出目・占い]系
いよいよ馬券本ワールドの深部に突入だ。
不滅の必勝アイテム、出目・占いである。当たるも八卦、当たらぬも八卦。ここまでくるともうワビ、サビの世界になる。理論もへったくれもない。
「競馬予想には時計も距離も血統もいらない。そんなものは何に役にも立たない。必要なのは星の力が注がれる馬を見つけることだけ」
なんて書いてあるもんなあ。まったく、こういうのを読むと、必死でスポーツ新聞読むのがバカらしくなるほどだ。
統計学上、出るのだから仕方がない。この一言で、このジャンルは統一されている。馬券本の構成も、要するに巻末の組み合わせ表がウリで、あとは付け足しであることが多い。付け足しとは自慢話のことだけど。あ、カンジンの表だけ袋とじってのもあったな。敵もさるものなのだ。
理論がないということは、なんでもアリということでもある。つぎつぎに登場する出目、占い系の本を見るたびに「統計はどうした。なぜ本ごとに統計データが違うんだ」と疑問を抱くのは私だけではあるまい。が、そんなことをマジに考えてはいけない。カラダを壊す。
「それは出目だから。占いだから」
それでいいのだ。組み合わせ表など無視しよう。 読むべきは、その組み合わせになるまでのサイドストーリー。著者はたいてい易などの専門家なのに、なんでまた馬券本など書くハメになったのか、そこのところを正直に書いてある本を選びたいものだ。苦しいぞそれは、とか内心ツッコミを入れながら読むと、ひどい本は本当にメチャクチャであることが5分でわかる。このジャンルだけは衝動買いをお勧めできない。イージーに作られたものが多いのだ。
この分野の特徴として、当たらない人はとことん当たらないことが挙げられる。いつかきっと……はないジャンル。運命の周期がズレているのだ、きっと。
かと思えばコンスタントに当たる著者がいるから油断はできない。私が過去に行ってきた検証で、つねに上位にくる梅澤保氏など、まったく説得力などないにも関わらず、ドカンと穴を当ててしまう困ったオッサンだ。本人も同様のようで、徹底的に「当たるのだからしょうがない」と悟ったようなことを繰り返し書いている。
でも、出す本をチェックしていると、この人の馬券術は基本的にずっと一緒なのがわかる。毎年出される新作は、すべて焼き直し。競馬をめぐる状況の変化に対応しているに過ぎない。それでもどこかエキサイティンングなのは、新しく示される的中レースの数々があるからだ。
レベル4XX
[暗号、特殊理論]系
暗号馬券術は故・高本公夫氏が“発明”した馬券術。それまでの馬券本は、おもに馬の見方や競馬新聞の読み方など、参考書的なものが中心で、純粋に馬券理論を展開したものはほとんどなかった。この人の登場で馬券本という書籍ジャンルが確立されたようなものである。
高本氏の功績は挙げればキリがないが、もっとも衝撃的だったのは、つぎのような考え方である。
「競馬は仕組まれている」
「JRAは一部の人間のために、レースの結果をあらかじめサインを出して教えている」
これが70年代後半、競馬ファンに衝撃を与えた暗号馬券術の夜明けだった。以来20年、暗号馬券は絶えることなく馬券本界をリードし、スターを輩出している。サイン解読は、それほどガッチリと我々のハートをつかんだのだ。競馬場で迷子のアナウンスがあれば、子供の着ている服の色が暗号だと色めき立ったりしてたもんなあ。
「4歳で青い服だってさ。しかも名前が河内と同じヒロシ。モロに4枠のサインじゃん」
「いちおう押さえとくか。でも、オトリかもしれんぞ」
「できすぎだもんな。むしろ、いまのアナウンスで盲点となるかもしれない入場券裏の広告ね、こっちが本物かもしれない。となると7枠のゼッケン10が臭いってことか」
「大河ドラマ連動説とも一致するしな」
「馬名サンドイッチでも、この馬がキーだ」
「軸は決まったな」
「おう、これしかない」
こんな会話が競馬場で飛び交うなんて狂っている。しかし、かつては平気で行われていたのだから恐ろしい。
出馬表、入場券、テレビCMなど、ありとあらゆるものが暗号と見なされ、草島たかよし氏が唱えた「G氓ノは年間テーマがある」との考え方は、暗号ファンを「なるほど」とウナらせ、いやおうなく影響を受けていた。
馬柱欄も暗号の隠し場所としてさんざん語られてきた。馬名、前走着順、親の名前、騎手・厩舎名。屁理屈さえコネられりゃあなんでもいいって感じである。いまとなっては何が「なるほど」なのかわかりはしないが、当時はみんな酔ったように、いつも新手のサイン解読法を求め、それが書かれた馬券本を買っていたもんだ。
時は流れ1998年。サイン解読は以前ほどのパワーはないが、いまだに強固なジャンルとして健在である。
支えているのはマニアックな研究者と、ゲームを楽しむようにサイン解読を楽しむ濃い口のファン。『TOHO馬券大学』という専門誌まであって、さまざまなオリジナル解読法が誌面をにぎわせている。
かつては、サインには「なぜそんなものを出すのか。どうしてこのサインでなければならないのか」の応えが求められたが、いまはそれすらない。あらゆるアプローチが認められたおかげで、みんな大マジメで取り組んでいる姿が美しい。なんとかしてサイン読みの新パターンを提示したい。そのために、人は不眠不休の研究を続けるのである。
暗号馬券術の弱点は、買い目が出しにくいところにあった。あらゆるサインはレース終了後に語られることが多かったのである。そりゃそうだ、どれが本物のサインなのか見分けるのはレース後がやりやすい。そのため、サイン読みはインチキ呼ばわりされることも多かった。
そこで最近は買い目の出せるものや予言形式のものが増えてきている。どうしても大レース中心になりがちなのが残念だけど、前向きな姿勢には頭が下がる思いだ。
当たるのかって?
そんなヤボな話はやめようじゃないか。
競馬は結果が決まっている、と堅く信じる人々たちの戦いは今日も続く。
「そんな複雑なサインを出して、アナタ以外の誰が解読できるんだ」
さあ、ノドまででかかったこの言葉を飲み込み、怪しさ満点の暗号馬券本を堪能しよう。
レベル4XXX
[オペレーション]系
サイン解読のテクニックに走る暗号馬券術から独立するカタチで、かたくなに「中央競馬=JRAの陰謀」説にこだわる過激派がオペレーション派である。裏ヨミ馬券術と呼ばれることもあり、私は、彼らこそ究極の馬券本作家だと思って尊敬している。
まず、基本となる「陰謀」という概念が素晴らしい。「陰謀」であるからには「罠」や「駆け引き」があり「キーワード」があり「闇の帝王」がいるのである。サインなんて甘いアメ玉はないのだ。敵が仕掛けたトラップを発見し、意図を探り、真意を見極める能力がないと生き残れないんだから、競馬やるのも大変なのだ。
そこには暗号派の陽気さ、お気楽さはなく、緊迫した空気が流れている。ついに、競馬は命がけの戦いとなってしまった。たかが競馬の話とは思えない大掛かりな場面設定こそ、オペレーション系の読みどころである。
なんたってJRAは競馬ファンから金をムシる事ばかり考えている悪魔の手先ですからね、おだやかではない。そんなJRAの陰謀を読み解き、裏をかき、的中馬券をゲットしようというのだ。読者はみんなゴルゴ13になった気でいなけりゃならない。
オペレーション系の著者たちは超マニアックで不器用である。気の利いたお愛想など苦手である。したがって文章はあくまで堅く重々しいのが特徴。やたらに難しい言葉を使いたがる傾向もある。
まず、意味がよくわからない。論理の飛躍についていけない。つまり、なんだかさっぱりわからない。読者側にも相当の覚悟がないと、ついていくのも大変ですな。
あまりの業の深さに圧倒され、前書きを読んだだけでビビってしまうことになるかもしれない。それは初対面にも関わらず、いきなり強烈なエロ話を仕掛けてくるオヤジとの出会いにも似ている。
しかし、酸いも甘いも知り尽くしたオヤジのエロ話っておもしろいんだよ。
オペレーション派の馬券術だって、まあ似たようなもんだ。
おおげさな設定に最初はとまどうかもしれないが、本当に我々がJRAの手の平で躍らされている可能性はないのか。生かさず殺さずチビチビと競馬で負け続けているロボットではないと言いきれるのか。答えはノーだろう。いや、ノーと考えてみるのだ。誘いに乗ってあげるのだ。
そうすればガキどもにゃ理解不能なアダルトオンリーの世界、おどろおどろしい馬券本の最深部を覗くことができるようになる。それは妄想なのか。それとも妄想めいた事実なのか。著者たちは、こんなことばかり考えていてまともな日常生活が送れるんだろうか。
無理に決まってる。なぜなら彼らにとって競馬は文字通り、人生を賭けた戦いだからだ。
前進あるのみの彼らに戻る道はない。ここまで競馬にイレ込むことができるなんて、うらやましい生き方だとは思わないか。思わないなら、それはそれでいいんだが、でも一度は触れてみて欲しい世界だ。
それでも私は馬券本を買い続ける
さあ、アナタは馬券本ワールドの入り口に立った。景気のいいコピーを前に、気持ちは千々に乱れる。なにせ競馬はむずかしいのだ。こんなインチキくさいコピーが信じられるかい。1200円の本でビシビシ当たるなら誰も苦労はしないぜ。そう思うのはもっともである。
冷静になり、買う気をなくす人もいるだろう。 1、2冊買ってはみたけど、あまりの低回収率に「ダマされた
」と嫌気がさしてしまう人が多いのかもしれない。「トンデモ本だぜこれ」とか言って、笑って済ませるって寸法だ。
そこだよそこ。そこんとこ、グッと辛抱して踏み込んでもらえないっスかね。そうすればディープな世界が待っているのだ。どんなに当たらなくても、理論がチープでも、それが馬券本であるかぎり、行間に異様な雰囲気が漂っているはずなんだが。
え、それがどうしたって?
当たらなければ単なる紙クズだって?
う〜ん、キミの言うことは正しい。けど、つまんない。
私は、目の前に広がっている馬券本ワールドをみすみす入り口で引き返す、そんなアナタの健全さをまったく支持できないのである。そんな奴はスターホースの100円の単勝馬券でも買って、せいぜい想い出作りに励んでいればよろしい。
アナタはいくら競馬をやっても生活が破綻することはないだろうし、馬券がハズレて絶望的な気分を味わうこともない代わりに、カラダがトロケるような的中の快感に酔いしれることもきっとないと思う。そんな競馬のどこがおもしろいのか私にはわからないのだ。ギャンブル濃度が薄いっていうかさ。
だいたい健全な競馬ライフって矛盾してないか。レジャーじゃんそれ。お子様の遊びじゃん。
いやいや、エキサイトしてしまったが本心である。私は馬券本こそ競馬ファンにとっての“踏み絵”だと思っているし“競馬はロマン”の神髄もココにあると思っているのだ。
馬券本ワールドとは「必勝」の2文字を追う、ドロドロ馬券オヤジたちの夢の巣窟である。
この世に競馬必勝法はないことぐらい十分わかっている。けれど、夢を追いかけてみたいのが男。その夢が9分9厘かなわないとしても、残る1分の可能性に賭けてみたい。こうして、馬券本の著者たちは必勝法研究の旅に出るのだ。
長い旅である。孤独な旅である。
ある者は業界に身を置きながら的中システムを探り、ある者はパソコンを前に膨大なデータの分析に挑む。中国4千年の秘術を競馬に応用する者、馬の気持ちを考える者、JRAとの頭脳戦争に骨身を削る者もいる。まともな神経ならたちまちまいってしまうイバラの道。苦行僧と言ってもいい。
当然、旅の途中で脱落する者が続出する。そこを踏ん張り、血と汗と涙を流して独自の必勝理論に到達した者だけが、馬券本の著者になるのだ。
馬券本の世界はマーケットが狭い。せいぜい3万部も売れれば大成功とされる。当然、本の印税でくっていける人間などほとんどいないし、誰もそんなことは考えていない。そんなことより「こんな斬新な戦術を開発した」ことを発表することが重要で、自らの馬券術をぜひみんなに知って欲しいというのが執筆動機となっている。
ピュア、なのよね。強引な理論、御都合主義な推理のなかに、ドロドロ馬券オヤジなりのピュアな心情があふれているのだ。ふふふ、驚くなよ、ときにはひとりの男の人生っつうもんまでつまっていることもある。さすがに暑苦しくて困るが。
ともかく、そういう過程を経て誕生する馬券本ワールドは濃い。そして読者は、目まいがするほど著者の気迫、妄想、思い入れがつまっている活字の群れをグルメしつつ、新たな馬券へのアプローチ法を学んでいくのである。
当たるか当たらないかはむろん大事ではある。評価の基準はそれしかないし、それで評価しなければ失礼である。
でも、それだけじゃないんだよね。その本が生まれるまでのプロセス、著者のハマリ具合こそ真の魅力。この味を覚えたら、もう馬券本から離れられない。
それで何かトクすることがあるのかとだけは聞かないで欲しい。
夢だよ、夢。悪夢かもしれんがな。
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