<本稿に、2011年3月の東日本大震災後、
再び冬子さんを訪ねたルポを加えた小文を
『キミはヒマラヤ下着の凄すぎる実力を知っているか』(朝日文庫)に
収録しました。(2013年2月)>


   昭和の根っこをつかまえに

    第2回「私の志集」の巻 北尾トロ

この原稿は「裏モノjapan」に連載した『365歩のマーチ』で書いたものだが、
題材が“昭和的”であり、また単行本未収録でもあるので、ここにふさわしい
のではないかと思われる。後半は話が自分よりにズレてゆくのだが、いずれ
時間を見つけ「私の志集」のみの原稿に加筆するつもりである。
 

夜の街頭に
ひっそり立っている女
 予期せぬ出会いってもんがある。昔つきあってた女とバッタリとか、見ず知らずの人と瞬時に仲良くなるとか。
逆に通りすがりにインネンつけられてブチのめされるパターンもあって、これはちょっと出会いたくなかったり
する。
 その夜、ぼくが経験したのは長い間探していた人に偶然出会うってヤツだった。夜10時すぎ、友人と別れてS駅
に向かう途中に、その女が立っていたのだ。
「私の志集」売りである。
 東京在住の人なら、一度くらいは「私の志集」と書かれたボードを首からぶら下げて、駅の構内などに立ち、何
かを売っている人を目にしたことがあるかもしれない。
「志集」というからには詩を売っているのだろうと想像できるが、買ったことのある人は少ないはずだ。雰囲気的
に近づきがたいものがあるし、宗教だったら困る。わずか数百円とはいえ、わけのわからないものに金など使いた
くないってのが人情。かつてよく見かけたころは、ぼくもそう思っていた。好奇心にかられることはあったけれど、
買おうと思ったことはない。

 でも、見かけなくなってみると気になる。なにしろ、あれがいったい何なのか、どんな人の作品なのか、誰に聞
いても知らないのだ。だから、今度会ったら買ってみようと密かに決めていたのである。
 で、ずっと気に留めてはいたのだが、この日まで何年も会えずにいた。もうやめてしまったのだろうと、ほとん
どあきらめていた。
 それが、いきなり登場するんだから驚く。あんまり驚いたので戸惑って、通りすぎてしまったではないか。いか
ん、Uターンだ。
 でもまた通りすぎてしまった。う〜ん、買ってみたいとは思っていても相手は「私の志集」。どこかに警戒心が
働く。ここはいったん様子を見よう。
 近くの歩道橋からそれとなく観察する。売っているのは女性。白いブラウスとグレーのスカートを身につけ、通
りの真ん中にある柱の前にひっそり佇んでいる。位置取りは悪くないと思うのだが、道行く人は彼女に気づくとギ
ョッとしたような顔でサッと左右に別れ、一瞥もせず歩いてゆく。たまに興味を示すサラリーマンもいるが「おい
おい、よせよ」って感じで同僚が笑い、近寄ってはこない。
 この反応は昔と一緒だ。路上で歌うヤツやパフォーマンスを繰り広げるヤツがいくら増えても「私の志集」売り
が持つ独特のインパクトは薄れていないし、つきまとうマイナーなイメージも変わっていないらしい。
 30分ほどたったところで、酔っぱらいオヤジがやっと一冊買った。ひとりポツンと立っている彼女に同情して購
入したようだ。オヤジは「がんばれよ」と手を振ると、スーツのポケットに「志集」を突っ込んで千鳥足で去って
いった。

 よし、ぼくも買うとするか。
「志集というのは、詩ですか」
 思い切って声を掛けると、彼女は小さく「はい」と答えた。30代前半だろうか、清楚な感じの人である。ぼくは
一部購入し、さらに尋ねた。
「あなたが書いた詩ですか」
 バックに宗教団体か何かの組織が絡んでいる可能性もあるから、まずはそこんとこをチェックしなければ。ま、
自作だと言うだろうけど、信用できるかどうかは表情などから察しがつく。
 だが、彼女は表情ひとつ変えず、自分と夫とで書いた詩だと答えた。
「もともとは夫が始めたのですが、いまは私の詩も載せています」
 なるほど、夫婦で詩人なのか。『真紅の津波』と題された冊子には第28号と書かれており、昔から立っているこ
との説明はつく。発行人は個人名で、連絡先の住所も銘記。宗教絡みではなさそうだし、とくにアヤシイ点は見当
たらない。少々物足りない感じもするが、なんだか胸のつかえがとれたような気分だ……と思っていた。電車で中
身を読むまでは。

何が彼女を
そうさせる?
 ぼくが買った「志集」は、なんと73歳の夫と37歳の妻による作品だった。そして、第1号のタイトルは「題名未
定-妻の死-」となっている。妻とは、夫の前妻。さっきの彼女は、何らかの事情で妻を亡くした夫の再婚相手なのだ。
ぼくの記憶では10年以上前から姿を見かけている。
 どれほど売れるのかは知らないが、人を雇って割に合うとも思えないし、やはり売っていたのは彼女だろう。と
なると、彼女は20代からああやってコツコツ売っていた計算。でも、なぜ立ちっぱなしで肉体的にもキツイ方法をと
るのか。目的は何だ。金か、売名か。う〜ん、どちらとも思えない。謎だ。他の目的があるのかもしれない。このま
までは、またモヤモヤした気分になってしまいそうだ。

 数日後、午後6時半から2時間待ったが、彼女は現れなかった。場所を変えたのかと駅周辺を歩きまくったが発見
できずである。ほとんど毎日きてると言っていたのにどうしたんだ。まさかダンナが病気なんじゃないだろうな。
 翌日は7時半から待機。また空振りかと思った午後9時3分、先日と同じ恰好の彼女がスタスタと歩いてきた。バ
ッグから例のボードを出して首から下げ、スクッと立てば準備完了である。何のためらいも照れもない。到着後10秒
で、彼女は「私の志集」売りへと変身していた。バイトではこうはいかない。ボランティアでも、ここまではできない
と思う。

 ジロジロ見るのは悪い気がして、ぼくは歩道橋へ移動して観察を続行した。平日のこの時間帯は、勤め帰りのビジ
ネスマンが怒とうのごとく駅に突進。彼女は人波に向かって姿勢正しく立ち、静かに虚空を見つめている。物売りの
ように声をかけることもなく、愛想笑いを振りまくこともない。動と静のギャップはものすごく、彼女の周辺だけが
エアポケットのように空いている。数えると、駅に向かう人は1分間にざっと100人以上。1時間で4千人は下らない
だろう。端から見ているだけでも、そのプレッシャーは相当だと想像できる。まるで、暴風雨にひとりで立ち向かっ
ているかのようだ。

 ホンモノだ。本当に自分の作品を売るから、こんなに堂々とできるのだ。ぼくにはとてもできそうにない。いや、誰
だってここまでできやしない。ミュージシャンには楽器があるし、大道芸人には言葉や動きがある。しかし、彼女はひ
たすら立つのみ。さらし者状態。男たちの好奇の対象になったり酔っぱらいに絡まれることもあるだろう。実際、この
日は一度、ヘンな男に絡まれて近くで雑誌を売っているオッチャンのところに一時避難していた。それでも彼女はすぐ
に柱に戻り、また売り始める。

 単なるヤジ馬として様子を見ていたぼくは、いつしか彼女にただならぬ迫力を感じ、目が離せなくなってしまった。
発見されてはマズイので、ショーウインドウに写る姿を頼りに見続ける。たまに現れる客(たいてい酔っている)が
「志集」を買うたびにうれしくなってしまったほどだ。
 この日は12時ジャストまでかかって、1万人を越す通行人のなかから7人が買っていった。1冊300円だから2100円
の売上。案外売れたという気もする。少なくても生活の足しにはなる額だが、ぼくには生活のためだけに彼女が「志
集」を売っているとは思えなかった。まだわからないが何かがある。彼女が路上に立たなければならない理由がきっと
ある。

「これが私の仕事
なんです」
 その秘密を解くカギは「志集」のなかにあるのではないか。そう考えたぼくは、バックナンバーの購入を思いついた。
 翌日はまた空振りだったけど、その次の日は、きっちり登場。手持ちのバックナンバー4冊を買い、なぜ立つのか尋
ねてみた。
「夫は街頭詩人なんです。50年ほど前に街頭に立ち始めたそうです。いまも元気なんですが、私が意志を継ぎ、こうし
て立っています」
 50年といえば半世紀前。昭和20年代半ばからやっていることになる。
「でも、あまり売れないんじゃないですか」
「これが仕事ですから」
「え、でもこれだけでは……」
「これが私の仕事なんです」
 そういうと、彼女は口を閉ざした。こういうのは、いつも聞かれることなのだろう。わかってくれる人だけに伝われ
ばいいという態度だ。そうか、ところで彼女自身はどのくらいの期間、街頭に立っているのだろう。
「17年になりますね」
 え、そんなに。20歳そこそこからやってるってことではないか。
「疲れませんか。虚しいなとか、もうやめてしまおうかとか思わないですか」
 いくら作品のため、夫の意志を継ぐためといっても、17年は長い。長すぎる。
「いいえ。信念をもってやっていますから」
 作品は、あくまで街頭に立ち、手渡しで売らなければならない。もちろん徒党を組むことなど許されず、孤独に群衆
と対峙しなければならない。ガンコ一徹。いくらメディアが発達しようがインターネットの時代になろうが、そんなも
のは関係ないのである。
 ひょっとすると、彼女とその夫にとっては「志集」を売ることより、街頭詩人であり続けるという志を貫くほうが大切
なのかもしれない。

人波に立ち向かうことが
ぼくにできるのか
 翌日、彼女は新たに2冊のバックナンバーを持ってきてくれた。在庫はこれだけで、あとの号は品切れだという。不
自然だと思われずに彼女と接触できるのは、これが最後ということだ。「私の志集」に関する謎が全面的に解けたわけ
ではないが、これ以上の詮索はヤボな気もする。そこで、ぼくはいちばん聞きたかったことを素直に尋ねることにした。
「ダンナさんの奥さんが交通事故で亡くなられたことは詩を読んでわかりました。だけど、あなた自身は、どうして立と
うと思ったんですか。あなたも、もともと詩を書いていたとか?」
「いえ、私はただの読者でした」
 いまのぼくと同じように客の立場だったという。夫と親しくなる経緯について彼女は何も語らなかったが、亡くなった
妻(この人も街頭詩人だった)との面識はない。それでも彼女は、第1号で「個人の意志を継ぎたい」と記している。
「夫は初めて街頭に立ったとき、死のうと思っていたようです。いまここで死んでもいいと。死ぬために立つのだと。今
日まで生きてはいますが、気持ちはいまも変わらないと思います」

 だんだんコワくなってきた。いま生きているのはたまたまだと言いたげな口ぶりなのだ。なぜ彼女が立ち続けるのか、
おぼろげながら感じることはできるものの、とうてい理解はできない。
 それなのに、ぼくは彼女の言葉に感銘を受けていた。いや、連日眺めた立ち姿に感動していたというのが正確だろうか。
これは詩の内容などは関係のない話だ。群衆のなかでひとり、何かを訴えることの力強さに圧倒されていたのである。歩
いている側にとっては変わった人が作品らしきものを売っているとしか思えない行為も、逆の立場で考えたら、すごいパ
ワーを必要とすることだと思う。ティッシュ配りとはわけが違う。

 考えているうちにコーフンしてきた。そして、なぜ自分が「私の志集」にこだわっていたのかわかった。ようするに、
ああいうことをやってみたい気持ちがどこかにあったからだ。
 いや、ぼくだけじゃないだろう。けっして買わないくせに、目にした人が「私の志集」売りのことを忘れられないのは、
異様な雰囲気のせいだけじゃなくて、自分にはできそうもないことを平然と行う人を見てしまったショックからじゃない
だろうか。
 ぼくはこれまで一度たりとも、群衆の前に身をさらして何かをしたことがない。この連載で詩を朗読したといっても、
あれはそのための場だった。彼女のように心に死の決意を秘めた行動はできないとしても、大勢の人の目にさらされるこ
とに耐えられるかどうか、やってみる価値はあるように思う。
 手描きではうまくできないのでワープロを使い、首から下げられるように細工する。売るのは自分で作ったミニコミ誌。
文句は〈私が作った本「廃本研究」を買ってください〉にした。出来上がったものを下げて鏡を見ると、映っているのは
カッコ悪い中年男の姿だ。
 でもこれで行く。これが自分なのだ。短い売り文句に興味を引かれる人などいやしないはず。そんなものよりモノを言
うのは、立つ者の存在感のはずである。少なくてもぼくは、詩に興味があったからではなく、彼女の無言のエネルギーに
惹かれたのだから。

アブナイ人に
見えますよ
 日曜の午後、吉祥寺に向かう。
ここにある井の頭公園には休日になると多くの人が集まり、ぼくの本を買ってくれそうな若い連中もいっぱいやってくる。
公園に通じる道路はクルマも通らず、恰好の狙い目なのだ。
 だがしかし、案外いい場所はないものだ。昼間とあって店の前はマズイし、せめて電柱か何かの前でないと通行のジャマ
になる。ウロウロしているうちに公園の入り口に着いてしまった。しかも園内ではフリーマーケットのように、人びとがい
ろんなモノを売っている。多少プレッシャーが弱まるかもしれんが、ここにするか……。
 うまいことに、入り口正面の桜の木の下があいている。ここなら公園に入ってくる人に丸見えだ。
 カバンからボードを出して、中腰で首から下げてみる。これで、立ち上がれば勝負開始である。
 くぅ、緊張するなあ。立ったらもう引き返せない。彼女のように前方を見つめ、ひたすら黙って声をかけられるのを待つ
しかないのだ。当然、まわりは「このオヤジ何者?」って目で見るだろう。笑われるかもしれない。耐えられるのか。えー
い、そんなこたぁやってみなくちゃわからんだろがあ!

 立った。胸を張って顔を上げた。
 その瞬間、通行人ではなく、まずアクセサリーやカードなんかを売っている店の連中の鋭い視線が飛んできた。顔が火照
る。腋の下を汗が伝わるのがわかる。落ち着け。目はどこを見ればいいんだ。やはり前か。入り口あたりか。右手に抱えた
本がじんわり汗ばむ。気合いを入れて気をつけの姿勢を取ってしまったため、早くも足が硬直しかかっている。
 通行人が気づきだし、3メートルまで接近するとクルリと方向を変えたり、ぼくを迂回するように避けていく。子供がひ
とり無邪気に近寄ってきたら、親が慌ててやってきて連れ去ってしまった。ぼくはかなりヘンなのだろうか。まあそうだろ
うな。これくらいのことは覚悟していた。それより、つらいのは徹底的に無視されることだ。避けようとするのは意識して
いる証拠。ぼくと目を合わせようとせず、そこに人間などいないかのように目の前を行き過ぎられることのほうがキツイ。

 5分ほど経過すると、少し余裕が出てきた。「私の志集」ですら3時間で7冊なのだ。すぐに声がかかると考えるほうが
おかしい。
 なんといっても、ぼくの場合は地面に売り物を並べるわけでもなく、人前に立つのも初体験。客からしたらまるでなじみの
ない人物である。昼間で酔っ払いもいないとなれば、まずは何を売っているのか、アヤシくないのか確認するのが常識だ。
なになに、私が作った本を買ってくれだってと、一度目は通りすぎるもんだ。それが二度、三度と目にするにつれ、当初の
警戒心は薄れ、だんだん興味が湧いてくる。そうなったらシメたもんで、場所柄を考えても1冊売れたらグングン客がきた
りして。

 たとえば、さっきから近くで写真などを売っているかわいい女のコがチラチラこっちを見ているのをどう解釈すればいい
か。あれは一見バカにしてるようでいて、じつはぼくの勇気に心で拍手を送っているとも考え……られないね。店ごと引っ
越していったからね。
 30分経過。まだ誰も話しかけてはこない。存在感だけはあるようで、相変わらず指を差して笑うヤツ、いぶかしげに見て
いるヤツは後を絶たないが、ちっともうれしくない。周囲からも浮きまくているのは明白。そろそろ場所を変えるかと思っ
ていると、30歳くらいの男が意を決したように近づいてきた。しばらく前からこっちを眺めていたヤツだ。
「あの〜」
 はいはい、本を見たいのかな。
「さっきから見てますけど、おたくコワイっすよ」
「そ、そうですか」
「怒ったような顔です」
 男はそう言うと、本をパラパラめくり始めた。
「おもしろそうな本なのに、宙を睨んでるから、アブナイ人に見えますよ。じゃ、そういうことで」
 なんだ忠告だけかよ。しかし、顔がコワいとは、緊張感がめいっぱい表に出ていたようだ。「私の志集」売りの無表情か
つ説得力のある雰囲気は、一朝一夕に醸し出せるものではない。

結局、売上は
ゼロだったが……
 その後も売れる気配はまったくない。まわりではかなりモノが売れているけど、ぼくのところには人がこない。が、時
間とともにまわりの視線はどんどん感じられなくなってきた。恥ずかしかったり緊張したりするのは余計なプライドや自
意識があるからなのだ。いちいち気にするのがバカらしくなってくると、肩の力が抜けてくる。もっとも、それだけじゃ
あ、デクノボウと変わらないんだけど。
「すいません」
 久しぶりに声を掛けてきたのは、隣で写真を売っている男だった。
「なぜ立ってるんですか?」
「立ちたいからです」
 強い動機などないぼくには、こう答えるしかなかった。
「首からぶら下げているボード、下に置いたほうが見やすくないですか。それに、座ったほうがいいと思いますよ」
「でも、ぼくとしては立ち続けることで勇気をですね」
「でもそれじゃ売れないですよ。売れました?」
「いえ、ぜんぜん」
「でしょ。異様ですもん」
 その男は、この場所で毎週、自分の写真を売っているという。半年で50万の売上だそうだ。たいしたものだと思うし、
そんな彼から見れば、突っ立ったままのぼくは不器用きわまりなく見えることだろう。
 しつこく勧めるので座ってみた。彼の言うとおりラクではある。なにより視線が低く、通行人と目が合わないため、心
理的圧迫がほとんどない。座って商売するほうが、明らかに商売には適している。
これだったら、誰もぼくをコワイとは思わないだろう。逆に言えば、立ち尽くすことは、ただそれだけで意味を持つ行為だ
し、立つ側にそれなりの覚悟がないと、群衆に押しつぶされてしまう。だからこそ「私の志集」売りは、けっして座ることが
ないのかもしれない。

  1時間経ったところでぼくは荷物をしまった。結局、売上はゼロ。「志」なき身に、ボードひとつで群衆に向かうのは無
謀な挑戦だった。立ってみて、それがよくわかった。ぼくはもう立つのはやめる。でも、ムダなことをしたとは思わない。
 彼女はいつまで夜の街頭に立ち続けるのか。高齢の夫にもしものことがあったら、それでも彼女は立つのをやめないのだ
ろうか。
 ときどきはあの歩道橋まで、彼女の元気な姿を見にいこうと思う。
 

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